真田 信繁。 武田信繁

(2007年、演:)• こちらの真田家も明治維新まで続いています。
丸島和洋 『真田信繁の書状を読む』 星海社新書、2016年 実は、真田幸村(真田信繁)の前半生は不明な点が多く、生まれた年もはっきりしていません
滝川一益は北条軍に敗れ、関東を離れますが、その際に真田信繁を同行させ、木曾福島城(信濃)で木曾義昌に引き渡しています (4)根津甚八 信濃の名族・滋野氏の流れを汲む根津氏を出自とする
すでに生れていた嫡男:真田信之を補佐する有能な武将になって欲しいという願いがこめられていたのかもしれません 幸村は秀吉亡きあとも、豊臣のために尽力しました
しかし、それでも、幸村は大恩ある豊臣を裏切らなかったのです 幕府・諸大名には当然ながら知られていたが、庶民には夏の陣から後、主に軍記物や講談等でその名将ぶりが知られていった
前田軍は翌日も射撃され、次は真田の鉄砲隊に夜襲をかけたが、また誰もいなかった なお、同時期には晴信嫡男の義信が元服しており、信繁の吉田氏継承は武田宗家から外れ庶流家当主となることで義信の武田宗家後継者としての立場を明確にするための政治的配慮であった可能性も考えられている(丸島 2007)
は論文で、の同母弟にがおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する 加えて、本来なら関ヶ原の戦いでの罪で処刑を言い渡されてもおかしくなかった身でありながら、兄の信之が徳川の家臣であったと言うだけで、反逆を起こした敗残兵としては異例とも言える好待遇を受けていた事も、他の浪人達からの印象はお世辞にも良くなかったとされている(他の牢人達殆どが、逆賊として追われ続け逃げ隠れする日々を送っていたのに対し、信繁・昌幸の親子は信之の嘆願で命を救われただけでなく、蟄居の身とはいえ昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され、近くには家臣達の屋敷まで建てられており、更に信之から仕送りを受ける事も認められるだけでなく、信繁個人に至っては妻や侍女の同行まで許されて、その為に家康の采配で蟄居先が女人禁制の高野山から九度山へとわざわざ変更される等、当時の反逆者への処遇としては「贅沢」とさえ言え、の誕生にも繋がっている)
鹿児島では幸村は芦塚左衛門と名乗ったが、現地の者は、幸村を芦塚大左衛門、その子・真田大助幸昌を芦塚中左衛門、孫を芦塚小左衛門と区別していた それを表すのが、やはり大阪の陣でしょう
41
上田に住む姉や親戚への手紙には、大坂冬の陣で大坂方についたことで上田の真田本家に迷惑をかけたことを詫びている 豊臣方は約束違反だと抗議しましたが、もはやどうにもなりませんでした
甚八は信繁が秀吉の命により九鬼水軍の動向を探っている際に会い、配下に加わった さらに、祖父・真田幸隆はじめ、真田家後継者が次々と命を落とし、1575年(天正3年)、父・真田昌幸が真田家の家督を継ぎました
一方、真田幸村(真田信繁)は戦場での戦略に優れた武将でした おそらくは直江兼続にも接していたでしょう
また、父昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を教え込まれ、常に武備を怠ることは無かった しかも、三度も突撃して
東軍につくことになった兄・信幸が「もし西軍が敗北しても、ふたりが処刑されないように尽力しよう」と口にしたことに対し、信繁が返答したコメントだといわれます 幸村は撤退する大坂勢の殿(しんがり)を務める
1582年以降に武田家、もしくは真田家で登場しますが、戦国時代末期の武将だと、めぼしい武将がいないのでけっこう目立ちます 長野の郷土史家の猪坂直一は、戦前に「再度の交渉に信州一ヶ国を与えようと言ったというのは無論虚説であろう
秀頼の娘・ 天秀尼はと(お初)の嘆願で助命されて、鎌倉の東慶寺に入ることになった 猿飛佐助ら真田十勇士を従える「真田幸村」のイメージが人口に膾炙した結果、「真田信繁」という実像が見えにくくなってしまった
しかし、幸村はもうじたばたすることもなく「儂の首を手柄にせよ」と告げ、自ら差し出したという話です また、周りから好かれる性格だったようで、真田幸村が上杉家の人質として越後にいた際は、上杉景勝に領地をもらうほど、とても可愛がられていました
これに対して信繁は「秀頼様には1つの曲輪(真田丸を指す)を任せて下さった御恩があるので、寝返るわけにはいかない これは強い武将である自分に目を惹かせるため、という理由もあるようです
幸村は指揮系統が崩壊した徳川勢を見て「 一気に叩き潰すぞ」と、真田丸から長男・大助ら500人の陸戦隊を突撃させ、徳川勢に大損害を与えた 1週間、徳川秀忠の軍を留めることに成功します
37